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この歌は亡き父の愛唱歌でした。昭和20年満州鉄道の現場から舞鶴港へ帰ってきて親父【私からはおじいさん】の顔を見たとたん涙が出たそうです。同じ三重県出身ということで特に気にいっていました。何時聴いても良いですね😃
さびの、裏声がたまらなく良い❗️泣けるねぇ。
,母はハルビンからの引揚者です。父は沖縄戦で生き残り、収容所を経て、21年に、帰還しました。引き揚げ船から、日本が見えたとき、どれほど嬉しかったでしょうね。そしてまた、帰りたくても、帰れなかった幾十万の人たちを思うと、自分が年をとればとるほど胸が熱くなり、この歌を聴くと、涙が流れます。バタヤンの歌が好きです。胸に沁みます。
戦後70数年。国権の無謀により赤紙一枚で地獄の戦地へ駆り出された方々は、今や85歳以上の老齢期に差し掛かった世代です。本当に、ご苦労様でした。 ありがとうございました。 日本国民は決して忘れてはいけません。国家が国民を悲しみにしたことを。 九死に一命を取り留め帰国し、国の礎を築いて下さった皆様に、衷心より感謝を申し上げます。ありがとうございました。
他界した自分の父が、昭和24年秋にシベリヤ抑留より舞鶴の引き上げ桟橋に復員してきたおりに波止場で流れていた曲だそうです。それ以来父はシベリアでなくなった戦友や部下を供養する想いで歌う機会がありますと涙ぐんで歌っていました。父の18番としてでしょう。他界後自分が受け継ぎ、今は自分の18番としております。
あなたは侵略者です
なつかしいバタヤン!幼い日の苦労に涙がでます、、本も読みました。やさしく頭の良い人、惜しい人、、このような人はなかなか出てこない、、でも歌は永遠に生きて、慰めてくれます、、
バタヤンの歌、大好きです!哀愁のなかに明るい美声!育つ盛りにどんなにか苦労したことでしょう、、涙が出ます、、
亡き父が「かえり船」をよく歌っていたのを想いだします。父は旧満州からの引揚者でした。そして引き上げて日本に帰る途中の船でこの「かえり船」を聴いたと言っていました。この歌を聴いてやっと日本に帰還できるうれしさがこみ上げてきたのでしょう。すばらしい曲です。悲しくも哀愁を帯びた詩とメロディ素晴しいの一語に尽きます。
田端さんが歌うととても哀愁がありとてもすきです。亡くなった父は良く歌っていたのを思いだします。どんな気持ちで祖国に帰ってきたかと思うと心が痛みます。今、平和で繁栄がありのはこの先人の方々が頑張ったいおかげだと思い感謝しています。
大正5年生まれの親父がこの歌1曲だけを歌っていました。懐かしい、いい歌です。
今日もこの昭和の名曲中の名曲を、バタヤンの泣き節で聴けてしあわせです。。有難う。。
父の話では復員船でこの歌を聴いた兵隊さんたちは皆涙を流したそうです。「勇ましい歌で前線に送り出したのだから、負けたとはいえ日本に帰ってくる兵隊さんを迎える歌があってもいいじゃないか」と言う田端義夫さんの気持ちが伝わってくる歌です。
八丁堀交差点
船から見えた日本の緑に涙を流した復員兵、帰れなかった戦友の事を思った涙でもあります。
涙が出てとまりません。
同じく。号泣 😭
こころに沁みむる名曲涙が出ます。
亡き父が、歌詞カードを片手に、この曲を歌っていたのを思い出します。何度も繰り返しレコードをかけているので「なんで?」と私が聞くと、会社の飲み会で歌うんだ、と恥ずかしそうに答えました。寡黙で生真面目な父が初めてみせた一面でした。この歌を聞くたびに、その時の父を思い出します。
沁みる。日本のブルース。そして、日本の心。昭和、平成と生きている自分には、コメントするのもおこがましいですが、想像も絶する思いで、散って行った大先輩、また生き抜いた大先輩。全てに感謝します。ありがとうございます。
まったく同感です。
私は戦後の生まれでこの曲には当たりませんが先人の苦労がわかる曲と察します。戦後の苦労をがあるから今の平和な日本がある事を忘れる事が無いようにしなれればいけない事と思います。
「歌は世につれ」といいますが、現代にこれ程 魂に沁みる歌はあるのだろうか?子供のころ バタヤンと紅生姜の逸話を無口な 亡き父が 熱く、静かに聞かせてくれたのを思いだし、 年甲斐なく 男泣きしながら、拝聴しております😅。
亡くなった親父を思い出す🥺懐かしい‼️
子供の頃から、いつも聴かされてましたから懐かしいですね😂田端義夫のレコードばかりでした😅小学生の頃に爺ちゃんの兄弟だって聞かされてなっとくしましたね😌もう会えないのが残念です😭俺の旧姓は、田畑です👍
田端さん、私のおふくろは、歌好きでお腹で良く聞いたようです、生まれてからもエレキのおじさんでよく聞いておりました。思いでの唄です。
敗戦で打ちひしがれた国民に染み入った歌声ですね。父は、バタヤンさんやさぶちゃん、村田英雄さん三橋ミッチーさんなどあの辺の流行歌手が大好きで、よくナツメロ番組を小さい頃一緒に見ました。心よりご冥福をお祈り致します。
2001年に亡くなった父親が好んで聴いていました父は海軍軍人だったから色々思いもあったのでしょう今聞くと懐かしいです
父上に日本人としてありがとうとお伝えください。
祖父は、シベリア抑留された経験を孫の私に語ってくれました。この歌を聴きながら、強く優しかった祖父の思いを感じます。
過ワしたことがあり、
田中正三 『ㄆ
いい~🍀ですね☀️😃❗懐かしいですね🎵
昭和30年代、この歌をテレビを見ながら一緒に歌おうとした伯父が途中から涙がこみあげてきて歌えない…何度も同じ。伯父は中国からの引揚者。今は私がこの歌を聴くと涙ぐむようになりました。
私は現在62才、私の祖父も父 も、この歌を聴く時は涙を流していました。平和ボケと言えるほど良い世の中になりましたが先人の犠牲や死ぬほどの苦労があって現在があることは間違いありません。若い世代にも絶対にわかって欲しいです。
@@内藤康信 7
私の、亡き父は、第二次世界対戦 太平洋戦争の年!!16、17歳で…沖縄県北部、伊江島?へ…兵隊として志願したらしい、私が、幼い頃から、桜島等、南洋諸国…良く知っていました、いろんな事、話してくれたのは、二十歳過ぎた頃でしょうか、沖縄戦で、命は、落とさなかった、多分!?早く、終戦、しかし、軍に残り、南洋の島々に、残された日本兵を、全員、帰国させる為、船で…南洋諸国と、沖縄県、本州を行来、していたらしい。帰り船、よく聴いてました、NHKで、それと鶴田浩二さんの、歌も、涙目で、
Zaha Susumu gじょp
本当に懐かしい。 イントロがまた素敵 ♪ ♪
「ばたやん」私の人生そのものでした。私の名前も「たばた:田畑」あだ名は小さい時から「ばたやん」。昭和20年に引き上げてきた時によく耳にしたばたやんの数々の歌が懐かしく想い出されます。私の親父は10年前に94歳で他界しましたが教育一筋で「勲四等瑞宝章」を陛下から頂きました。田端義夫さんも同じこの勲章を平成元年に受賞され94歳で他界されました。親戚でもなんでもないのにほんとに親しみのある「ばたやん」でした。私の人生から昭和が消え去ったことを想うと時代の流れとはいえさみしさがこみ上げてきます。昭和は輝いてました。ご冥福をお祈りします。
安らかに休んでください。心からご冥福をお祈りいたします。長い間頑張っていただきました。「帰り船」、皆さんがおっしゃるように、この歌はあの戦争とは離れては考えられませんね。単なる「船シリーズ」の一つではありません。「別れ船」が軍の依頼だったにもかかわらずあまりにも切ない歌ということで禁止になったのに国民はばたやんの熱唱につられて歌っていたものでした。「梅と兵隊」とともにとてもに「戦争」とは無縁の歌でした。「帰り船」はまさに戦後の日本の辛い時期を見事に歌い上げてくれています。まさに絶唱です。小生、78才。戦争体験者だからこそこの歌を「単なる演歌」とは思えません。思うべきではないでしょう。ばたやん。ほんとにほんとにありがとう。niro1211さん、ありがとう。
説明してくれてありがとうございます!
「捨てた未練が未練となって...」(捨てたはずの未練がよみがえって..)心に沁みる歌詞
私はバタやんのファンです小学2年から大劇に兄に連れて行ってました、声も然ることながら、あのギターの音色が堪らなく好きで、その頃から我流でかえり船を、かぶり付きで手の動きを真似て弾いて居たのが懐かしいです。
「大劇」という名前もなつかしい・・・・ (CAM)
佐世保の浦賀瀬には当時外地から命懸け引き揚げて来られた方たちの記念碑と記念館があります。記念館の落成時には、田端さん本人も出席していただいと聞いております。本当に有り難うございました。
私は今(2012年)62歳になっているけど、それでも戦争というものを知らない世代であります。でも、この歌には泣かされます。
いつ聞かせてもぁっても青春時代を思い出します。
満洲から博多に引揚げた80歳の老人です。20日間かけて故国の土を踏むまでの間、収容所や船の中で、引揚げ業務に従事された日本の旧軍人や厚生省の職員?の方が何度も催された慰労の会の中で必ず唄われて、聴くたびに心に沁みます。裕 バテックさんが言われている南風崎は鹿児島ではなく、長崎県佐世保の南、今ハウステンボスのある大村線で駅は一つ諫早側、「はえのさき」と読みます。傍の針尾島・浦頭(うらかしら)港が佐世保への引揚者を受入れた所で、港を見下ろす丘の上に「かえり船」の歌碑がたっています。 一昨年訪れただけに田端さんの訃報に衝撃でした。昭和が又遠くなりました。ご冥福を心からお祈りします。
苦労人(バタヤン)の歌は、何時迄も心にしみます。(戦中生まれ)
昭和12年生まれの私にとって、背嚢と軍靴での兵士の帰還は現実でありました。だからこの歌は実体験であり、歌人生の原点でもあります。反戦感情の原点でもあります。
ラジオで聞き覚えたこの歌を今は亡き兄がよく歌っていました。60年ほど前の事です。
日本には歌がある。万葉集、百人一首、梁塵秘抄。言葉のさきわう国といわれている。それらが歌垣のなかで歌われていた。戦後の復興も歌と共にあった。「帰り船」「青い山脈」・・・心の歌の数々ですね。
岸壁の母や帰り船などどんなに上手く歌う人がいても菊池章子や田端義夫以外は聞きたくない。この歌はこの時代を生きた同胞民族の証なのです
あの忌まわしい戦争が、終結して、いろんな国から,兵隊さん、仕事関係での家族のかた、従軍の看護婦さんなどの方、引き揚げ船で、この歌を聞いて、歌詞の意味⁉︎どれだけの方々が、涙した事でしょう、高校生の修学旅行で京都の舞鶴港での事を思い出します…。
涙が出るよ 味のある歌い手でだよ
ばたやんというには、失礼かもしれませんがあえて言わせてもらいます。”オス”といいながら舞台に出てくる独特のステージ、懐かしいですね。大好きです。
おーすっ
私らが物心付いた頃から聞いてきた、ばたやんの唄、今にも、「お~~す」出てきそうです。 癒されます。もぅちょっと、頑張ってほしかったです。
懐メロ❗とは✨昭和の日の匂いがします‼。この曲‼田端義夫さん‼名曲❗かえり船🚢❗も🎵わたくしも🎵大好きです‼。
昭和16年生まれの私にとっては懐かしく、また辛い思い出が甦る曲です。バタヤンの歌は戦後、人々の心をどれだけ癒してきたか・・・・・拍手をおくります。 飛騨gg
ありがとう✨端やん、貴方の声が、ふかぶかと構える肩が独特のギターの音色となって、笑いながらも、泣き声と重なり響き届きます🍀いいなぁ🎉
ありがとうございますの一言に尽きます!
私はいま80歳ですが良く大阪劇場に、それも小学2年頃7歳上の兄に実演が、有ると言えば😃連れて行って貰いました、帰り船の左手等かぶり付きで観ては音を捜し弾いた事が懐かしくあのギターの音の素晴らしい事今でもバタやんレコード等でギターを、弾き歌って居ます。
😢なみだ、なみだなみだ、
時代の歌,心の歌,有難うございます。
中学校時代?小学校だったかな 懐かしい歌声です!ほんとに懐かしい!
俺が小さい頃お袋がいい歌と言った、 その頃はこの歌のよさがわからなった。懐かしくて涙が出る
)は
ちちがよくうたってのんでいた
家の猫が好きな歌です。抱いて、この曲を口すさむと、喉をゴロゴロ鳴らして、眠りにおちます。子守唄と思っている。
カラオケ練習時の一番に歌うレッスン曲でした。
イントロのギター、いい音!
今年、86歳になる昭和11年生まれの父が若い時某キャバレーにあるステージに立ちに生バンドでこれを歌いレコードを作りました。今で言うカラオケでCD作る感覚。だから父の好きな曲と言えば、この「帰り船」です
大陸からの帰還船で「皆さん、本当にご苦労様でした。これは日本の船です。どうかご安心ください」というアナウンスに続いて田端義夫のこの歌が流れたとき、敗残の兵士たちは声を挙げて号泣したといいます。それほどこの歌には胸の奥底までズシンと堪える切ない「重さ」があります。
わたしも引揚者です 満州奉天から・・90近くになります
「皆様、長い間本当にご苦労様でした。これは日本の船です。これより皆様方を内地へお連れ申し上げます」という船内アナウンスとともに、このメロディが流れました…。これを聞いた復員兵たちは耐えきれず、船内のあちこちから嗚咽の声が聞こえたといいます。間違いなくこれは田端義夫渾身の絶唱と言えるでしょう。心よりご冥福をお祈りします。
いい歌を歌って下さいましたね。 有難う。
田端義夫さんの歌ですね。「かえり船」も、よく聴きました。素晴らしい歌手でした。当時の愛称は「バタヤン」でした。
物心ついて最初に覚えた流行り歌でした。当時の復員者達の心情を吐露した名曲でしたね。心からご冥福を御祈り致します。
父親はシベリア抑留後帰国しました。かえり船と岸壁の母を涙ながらに唄うたび、父親とおばあちゃんを思いだします。お彼岸の今日、感謝してお線香をあげさせて頂きます。
コメント有難うございます戦後の国民の皆さんが口遊みましたね~
ばたやん節♬・・じ~と来る歌良いね(^^♪
日本人の哀愁をかきむしる唄だな
私の父は中支戦線からヴェトナムへ転戦して終戦を迎え運良く帰還できたようですが、復員の時のことは話さないまま亡くなりました。もっと話を聞いておけば良かったと思います。
懐かしい曲ですね
バタやん お疲れ様。私の父が大ファンでした・・。私の子守唄でしたよバタやんの唄
私は、61歳ですが今になって思います、69歳で亡くなった親父がこの歌が流れるとテレビの前で無言で聞きいってました。この年になって思います。心の中で泣いていたんだと。倅の前では泣けないもんね、、、
戦前から歌う70年の演歌の人生お疲れ様でした・・ゆっくり休んでください・・心よりご冥福をお祈り申し上げます・・・・!
酔っぱらうと必ずこの歌を唄う奴が居て、私は19の春を唄います。古い古い時代です!後何年唄へますか???
帰国できるのにその思いは非常にわびしい・・・。
mittannkunn のようなお話を新聞で読んで胸が熱くなり泣きそうになりました。シベリア抑留のお話だったと思います。
最前線の日本の兵卒は世界でいちばん よく戦いぬいた人たちだと知りました。ゆえに私たちはその子孫として 誇りをもつことのできる者です。幾重にも伏して 感謝の意をあらわしたい。ほんとうに有難うございました。やすらかに天の国で憩われますように祈っています。
ガットギターで、よく弾きましたねぇ、50年過ぎた今でも。思い出すな~
本当にご苦労様でした。あなた達のおかげで、今の日本があります。決して忘れません。ありがとうございます。
復員船の中で聞いた話を新聞の投稿で読みました。映像が浮かんで泣きました。戦後生まれですが^^
nekozoku b mo
今日亡くなった父がよく聴いていました。涙が止まりません。今、亡くなった 親父の枕元で聴いています。
他界した父がCDで聞いていました。父は満鉄職員でした終戦時は現在の韓国でしたまた米軍管轄区域だっので何も不自由はなかったと言っていました、釜山から博多港に着いたそうです戦争さえなかったら満鉄職員で要られたのに子として思うていました葬儀の時この曲 で見送りました
田端義夫さん…とても残念です。 とても良くして頂いていました。 お家にも遊びに行ったり、東京のアトリエにも来てくれたり…。とても紳士で本当に優しい方でした。娘さんの絵を持ってきて観て下さいと照れていたり、自分が気に入っている本(臨終図鑑上下)やコンサートのチケットをわざわざ自分で届けにきて下さったり…。私の雑な忙しさにかまけてここ何年も会いに行く事をしていませんでした。そういった方が何人かいて…これからはもっと近況報告などしながらご挨拶に行く事にします。田端さん…ずっと現役でそれもデビュー当時と同じキーで歌っていました。 心からご冥福をお祈りする次第です。 萬謝、敬愛を込めて…合掌九拝
福の神
終戦記念日が近づくと聞きたくなります。
田畑さん涙を ありがとう😉👍🎶 ご苦労様でした。🙏💐
生きていたらうちの親父と同じくらいでした、長生きしましたね、ご苦労様でした。
還暦を過ぎたので先人の大変なご苦労を実感します。小学生の頃シベリアから未帰還のお身内のためお茶断ちをしていた先生がいらっしゃいました。親類にもシベリアから帰国した人がいました。たくさんの方が寒さで亡くなったそうです。帰れただけで幸せと言われました。ご苦労なさった皆様に深く感謝いたします。
敵兵をお互いに殺し合う戦時下でも、敵国民の命を等価として慈しみの心を持ち続けていたからです。田端義夫の精神はこれからも受け継がれなければならない。
親父の十八番でした 彼岸に行って十七年です
やっと前説の無いバタヤンの帰り船に出会えたことを嬉しく思います。どうも有り難うございます。
親父の好きな歌、葬儀で流し続けました。涙涙です。
私の父は大正14年12月生まれで、満60歳で亡くなりました。この曲が好きでした。ギリギリで出征しなくて済んだそうです(その兄、つまり私の伯父は中国へ出征)。
なんしかしみじみエエ歌ですわ☺️
かえり船で帰国した兵隊さんが言ったいたのを思い出す。現地にいた兵隊さんは、アメリカ軍によって補給船が殆ど撃沈され、食料がなく蛇やカエル、トカゲなど何でも食べたそうだ。帰れなかった兵隊さん、自分は言葉に言い表せない…。
私も田畑義夫さんのファンでしたよくぎたあひくまねをしてうたいました、
いいね田端義雄の名曲…イイネ押しました! 私のかえり船・かよい船も是非お聞きください。
The band and recording is marvellous!
バタやん オース 彼岸から日本を見守ってくれ。また戦後が消えた、淋しいぜー。
シベリア抑留から帰ってきた親父は異国の丘と帰り船を聴いたんだろうな~激動の時代を生き抜き耐えて帰還し3兄弟を育ててくれた。屁みたいなわいの人生 恥ずかしいわ~@@
ばたやん。あなたは日本人の宝物です。
私の亡くなった父がよく聞いてました。亡くなったとはとても残念です。ご冥福お祈りいたします。
「かえり船」が復員船のことだったとは。「皆様、永いあいだご苦労様でした。これは日本の船です。」というアナウンスのこともこのコメントで知りました。忘れてはいけないことです。
この歌は亡き父の愛唱歌でした。昭和20年満州鉄道の現場から舞鶴港へ帰ってきて親父【私からはおじいさん】の顔を見たとたん涙が出たそうです。同じ三重県出身ということで特に気にいっていました。何時聴いても良いですね😃
さびの、裏声がたまらなく良い❗️泣けるねぇ。
,母はハルビンからの引揚者です。父は沖縄戦で生き残り、収容所を経て、21年に、帰還しました。引き揚げ船から、日本が見えたとき、どれほど嬉しかったでしょうね。そしてまた、帰りたくても、帰れなかった幾十万の人たちを思うと、自分が年をとればとるほど胸が熱くなり、この歌を聴くと、涙が流れます。バタヤンの歌が好きです。胸に沁みます。
戦後70数年。国権の無謀により赤紙一枚で地獄の戦地へ駆り出された方々は、今や85歳以上の老齢期に差し掛かった世代です。本当に、ご苦労様でした。 ありがとうございました。 日本国民は決して忘れてはいけません。国家が国民を悲しみにしたことを。 九死に一命を取り留め帰国し、国の礎を築いて下さった皆様に、衷心より感謝を申し上げます。ありがとうございました。
他界した自分の父が、昭和24年秋にシベリヤ抑留より舞鶴の引き上げ桟橋に復員してきたおりに波止場で流れていた曲だそうです。それ以来父はシベリアでなくなった戦友や部下を供養する想いで歌う機会がありますと涙ぐんで歌っていました。父の18番としてでしょう。他界後自分が受け継ぎ、今は自分の18番としております。
あなたは侵略者です
なつかしいバタヤン!幼い日の苦労に涙がでます、、本も読みました。やさしく頭の良い人、惜しい人、、このような人はなかなか出てこない、、でも歌は永遠に生きて、慰めてくれます、、
バタヤンの歌、大好きです!哀愁のなかに明るい美声!育つ盛りにどんなにか苦労したことでしょう、、涙が出ます、、
亡き父が「かえり船」をよく歌っていたのを想いだします。父は旧満州からの引揚者でした。そして引き上げて日本に帰る途中の船でこの「かえり船」を聴いたと言っていました。この歌を聴いてやっと日本に帰還できるうれしさがこみ上げてきたのでしょう。すばらしい曲です。悲しくも哀愁を帯びた詩とメロディ素晴しいの一語に尽きます。
田端さんが歌うととても哀愁がありとてもすきです。亡くなった父は良く歌っていたのを思いだします。どんな気持ちで祖国に帰ってきたかと思うと心が痛みます。今、平和で繁栄がありのはこの先人の方々が頑張ったいおかげだと思い感謝しています。
大正5年生まれの親父がこの歌1曲だけを歌っていました。懐かしい、いい歌です。
今日もこの昭和の名曲中の名曲を、バタヤンの泣き節で聴けてしあわせです。。
有難う。。
父の話では復員船でこの歌を聴いた兵隊さんたちは皆涙を流したそうです。「勇ましい歌で前線に送り出したのだから、負けたとはいえ日本に帰ってくる兵隊さんを迎える歌があってもいいじゃないか」と言う田端義夫さんの気持ちが伝わってくる歌です。
八丁堀交差点
船から見えた日本の緑に涙を流した復員兵、帰れなかった戦友の事を思った涙でもあります。
涙が出てとまりません。
同じく。号泣 😭
こころに沁みむる名曲涙が出ます。
亡き父が、歌詞カードを片手に、この曲を歌っていたのを思い出します。何度も繰り返しレコードをかけているので「なんで?」と私が聞くと、会社の飲み会で歌うんだ、と恥ずかしそうに答えました。寡黙で生真面目な父が初めてみせた一面でした。この歌を聞くたびに、その時の父を思い出します。
沁みる。日本のブルース。
そして、日本の心。
昭和、平成と生きている自分には、コメントするのもおこがましいですが、
想像も絶する思いで、散って行った大先輩、また生き抜いた大先輩。
全てに感謝します。
ありがとうございます。
まったく同感です。
私は戦後の生まれでこの曲には当たりませんが先人の苦労がわかる曲と察します。戦後の苦労をがあるから今の平和な日本がある事を忘れる事が無いようにしなれればいけない事と思います。
「歌は世につれ」といいますが、現代にこれ程 魂に沁みる歌はあるのだろうか?子供のころ バタヤンと紅生姜の逸話を無口な 亡き父が 熱く、静かに聞かせてくれたのを思いだし、 年甲斐なく 男泣きしながら、拝聴しております😅。
亡くなった親父を思い出す🥺懐かしい‼️
子供の頃から、いつも聴かされてましたから懐かしいですね😂田端義夫のレコードばかりでした😅小学生の頃に爺ちゃんの兄弟だって聞かされてなっとくしましたね😌もう会えないのが残念です😭俺の旧姓は、田畑です👍
田端さん、私のおふくろは、歌好きでお腹で良く聞いたようです、生まれてからもエレキのおじさんでよく聞いておりました。思いでの唄です。
敗戦で打ちひしがれた国民に染み入った歌声ですね。父は、バタヤンさんやさぶちゃん、村田英雄さん三橋ミッチーさんなどあの辺の流行歌手が大好きで、よくナツメロ番組を小さい頃一緒に見ました。心よりご冥福をお祈り致します。
2001年に亡くなった父親が好んで聴いていました
父は海軍軍人だったから色々思いもあったのでしょう
今聞くと懐かしいです
父上に日本人としてありがとうとお伝えください。
祖父は、シベリア抑留された経験を孫の私に語ってくれました。
この歌を聴きながら、強く優しかった祖父の思いを感じます。
過
ワしたことがあり、
田中正三 『ㄆ
いい~🍀ですね☀️😃❗懐かしいですね🎵
昭和30年代、この歌をテレビを見ながら一緒に歌おうとした伯父が途中から涙がこみあげてきて歌えない…何度も同じ。伯父は中国からの引揚者。今は私がこの歌を聴くと涙ぐむようになりました。
私は現在62才、私の祖父も父 も、この歌を聴く時は涙を流していました。平和ボケと言えるほど良い世の中になりましたが先人の犠牲や死ぬほどの苦労があって現在があることは間違いありません。若い世代にも絶対にわかって欲しいです。
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私の、亡き父は、第二次世界対戦 太平洋戦争の年!!16、17歳で…沖縄県北部、伊江島?へ…兵隊として志願したらしい、私が、幼い頃から、桜島等、南洋諸国…良く知っていました、いろんな事、話してくれたのは、二十歳過ぎた頃でしょうか、沖縄戦で、命は、落とさなかった、多分!?早く、終戦、しかし、軍に残り、南洋の島々に、残された日本兵を、全員、帰国させる為、船で…南洋諸国と、沖縄県、本州を行来、していたらしい。帰り船、よく聴いてました、NHKで、それと鶴田浩二さんの、歌も、涙目で、
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本当に懐かしい。 イントロがまた素敵 ♪ ♪
「ばたやん」私の人生そのものでした。私の名前も「たばた:田畑」あだ名は小さい時から「ばたやん」。昭和20年に引き上げてきた時によく耳にしたばたやんの数々の歌が懐かしく想い出されます。私の親父は10年前に94歳で他界しましたが教育一筋で「勲四等瑞宝章」を陛下から頂きました。田端義夫さんも同じこの勲章を平成元年に受賞され94歳で他界されました。親戚でもなんでもないのにほんとに親しみのある「ばたやん」でした。私の人生から昭和が消え去ったことを想うと時代の流れとはいえさみしさがこみ上げてきます。昭和は輝いてました。ご冥福をお祈りします。
安らかに休んでください。心からご冥福をお祈りいたします。長い間頑張っていただきました。「帰り船」、皆さんがおっしゃるように、この歌はあの戦争とは離れては考えられませんね。単なる「船シリーズ」の一つではありません。「別れ船」が軍の依頼だったにもかかわらずあまりにも切ない歌ということで禁止になったのに国民はばたやんの熱唱につられて歌っていたものでした。「梅と兵隊」とともにとてもに「戦争」とは無縁の歌でした。「帰り船」はまさに戦後の日本の辛い時期を見事に歌い上げてくれています。まさに絶唱です。小生、78才。戦争体験者だからこそこの歌を「単なる演歌」とは思えません。思うべきではないでしょう。ばたやん。ほんとにほんとにありがとう。niro1211さん、ありがとう。
説明してくれてありがとうございます!
「捨てた未練が未練となって...」
(捨てたはずの未練がよみがえって..)
心に沁みる歌詞
私はバタやんのファンです小学2年から大劇に兄に連れて行ってました、声も然ることながら、あのギターの音色が堪らなく好きで、その頃から我流でかえり船を、かぶり付きで手の動きを真似て弾いて居たのが懐かしいです。
「大劇」という名前もなつかしい・・・・ (CAM)
佐世保の浦賀瀬には当時外地から命懸け引き揚げて来られた方たちの記念碑と記念館があります。記念館の落成時には、田端さん本人も出席していただいと聞いております。本当に有り難うございました。
私は今(2012年)62歳になっているけど、それでも戦争というものを
知らない世代であります。
でも、この歌には泣かされます。
いつ聞かせてもぁっても青春時代を思い出します。
満洲から博多に引揚げた80歳の老人です。20日間かけて故国の土を踏むまでの間、
収容所や船の中で、引揚げ業務に従事された日本の旧軍人や厚生省の職員?の方が
何度も催された慰労の会の中で必ず唄われて、聴くたびに心に沁みます。
裕 バテックさんが言われている南風崎は鹿児島ではなく、長崎県佐世保の南、今ハウス
テンボスのある大村線で駅は一つ諫早側、「はえのさき」と読みます。傍の針尾島・浦頭
(うらかしら)港が佐世保への引揚者を受入れた所で、港を見下ろす丘の上に「かえり船」
の歌碑がたっています。 一昨年訪れただけに田端さんの訃報に衝撃でした。昭和が又
遠くなりました。ご冥福を心からお祈りします。
苦労人(バタヤン)の歌は、何時迄も心にしみます。(戦中生まれ)
昭和12年生まれの私にとって、背嚢と軍靴での兵士の帰還は現実でありました。だからこの歌は実体験であり、歌人生の原点でもあります。反戦感情の原点でもあります。
ラジオで聞き覚えたこの歌を今は亡き兄がよく歌っていました。60年ほど前の事です。
日本には歌がある。万葉集、百人一首、梁塵秘抄。言葉のさきわう国といわれている。それらが歌垣のなかで歌われていた。戦後の復興も歌と共にあった。「帰り船」「青い山脈」・・・心の歌の数々ですね。
岸壁の母や帰り船などどんなに上手く歌う人がいても菊池章子や田端義夫以外は聞きたくない。この歌はこの時代を生きた同胞民族の証なのです
あの忌まわしい戦争が、終結して、いろんな国から,兵隊さん、仕事関係での家族のかた、従軍の看護婦さんなどの方、引き揚げ船で、この歌を聞いて、歌詞の意味⁉︎どれだけの方々が、涙した事でしょう、高校生の修学旅行で京都の舞鶴港での事を思い出します…。
涙が出るよ 味のある歌い手でだよ
ばたやんというには、失礼かもしれませんがあえて言わせてもらいます。”オス”といいながら舞台に出てくる独特のステージ、懐かしいですね。大好きです。
おーすっ
私らが物心付いた頃から聞いてきた、ばたやんの唄、
今にも、「お~~す」出てきそうです。 癒されます。
もぅちょっと、頑張ってほしかったです。
懐メロ❗とは✨昭和の日の匂いがします‼。この曲‼田端義夫さん‼名曲❗かえり船🚢❗も🎵わたくしも🎵大好きです‼。
昭和16年生まれの私にとっては懐かしく、また辛い思い出が甦る曲です。バタヤンの歌は戦後、人々の心をどれだけ癒してきたか・・・・・拍手をおくります。 飛騨gg
ありがとう✨端やん、貴方の声が、ふかぶかと構える肩が独特のギターの音色となって、笑いながらも、泣き声と重なり響き届きます🍀いいなぁ🎉
ありがとうございます
の一言に尽きます!
私はいま80歳ですが良く大阪劇場に、それも小学2年頃7歳上の兄に実演が、有ると言えば😃連れて行って貰いました、帰り船の左手等かぶり付きで観ては音を捜し弾いた事が懐かしく
あのギターの音の素晴らしい事今でもバタやんレコード等でギターを、弾き歌って居ます。
😢なみだ、なみだなみだ、
時代の歌,心の歌,有難うございます。
中学校時代?小学校だったかな 懐かしい歌声です!ほんとに懐かしい!
俺が小さい頃お袋がいい歌と言った、 その頃はこの歌のよさがわからなった。懐かしくて涙が出る
)は
ちちがよくうたってのんでいた
家の猫が好きな歌です。抱いて、この曲を口すさむと、喉をゴロゴロ鳴らして、眠りにおちます。子守唄と思っている。
カラオケ練習時の一番に歌うレッスン曲でした。
イントロのギター、いい音!
今年、86歳になる
昭和11年生まれの父が若い時
某キャバレーにあるステージに立ちに
生バンドでこれを歌い
レコードを作りました。
今で言うカラオケでCD作る感覚。
だから父の好きな曲と言えば、
この「帰り船」です
大陸からの帰還船で
「皆さん、本当にご苦労様でした。これは日本の船です。どうかご安心ください」
というアナウンスに続いて田端義夫のこの歌が流れたとき、
敗残の兵士たちは声を挙げて号泣したといいます。
それほどこの歌には胸の奥底までズシンと堪える切ない「重さ」があります。
わたしも引揚者です 満州奉天から・・90近くになります
「皆様、長い間本当にご苦労様でした。
これは日本の船です。これより皆様方を内地へお連れ申し上げます」
という船内アナウンスとともに、このメロディが流れました…。
これを聞いた復員兵たちは耐えきれず、
船内のあちこちから嗚咽の声が聞こえたといいます。
間違いなくこれは田端義夫渾身の絶唱と言えるでしょう。
心よりご冥福をお祈りします。
いい歌を歌って下さいましたね。 有難う。
田端義夫さんの歌ですね。「かえり船」も、よく聴きました。
素晴らしい歌手でした。当時の愛称は「バタヤン」でした。
物心ついて最初に覚えた流行り歌でした。
当時の復員者達の心情を吐露した名曲でしたね。
心からご冥福を御祈り致します。
父親はシベリア抑留後帰国しました。かえり船と岸壁の母を涙ながらに唄うたび、父親とおばあちゃんを思いだします。お彼岸の今日、感謝してお線香をあげさせて頂きます。
コメント有難うございます
戦後の国民の皆さんが口遊みましたね~
ばたやん節♬・・じ~と来る歌良いね(^^♪
日本人の哀愁をかきむしる唄だな
私の父は中支戦線からヴェトナムへ転戦して終戦を迎え運良く帰還できたようですが、復員の時のことは話さないまま亡くなりました。もっと話を聞いておけば良かったと思います。
懐かしい曲ですね
バタやん お疲れ様。私の父が大ファンでした・・。私の子守唄でしたよバタやんの唄
私は、61歳ですが今になって思います、
69歳で亡くなった親父がこの歌が流れるとテレビの前で
無言で聞きいってました。この年になって思います。
心の中で泣いていたんだと。
倅の前では泣けないもんね、、、
戦前から歌う70年の演歌の人生お疲れ様でした・・ゆっくり休んでください・・心より
ご冥福をお祈り申し上げます・・・・!
酔っぱらうと必ずこの歌を唄う奴が居て、私は19の春を唄います。古い古い時代です!後何年唄へますか???
帰国できるのにその思いは非常にわびしい・・・。
mittannkunn のようなお話を新聞で読んで胸が熱くなり泣きそうになりました。シベリア抑留のお話だったと思います。
最前線の日本の兵卒は世界でいちばん よく戦いぬいた人たちだと知りました。
ゆえに私たちはその子孫として 誇りをもつことのできる者です。
幾重にも伏して 感謝の意をあらわしたい。
ほんとうに有難うございました。
やすらかに天の国で憩われますように祈っています。
ガットギターで、よく弾きましたねぇ、50年過ぎた今でも。思い出すな~
本当にご苦労様でした。あなた達のおかげで、今の日本があります。決して忘れません。ありがとうございます。
復員船の中で聞いた話を新聞の投稿で読みました。映像が浮かんで泣きました。戦後生まれですが^^
nekozoku b
mo
今日亡くなった父が
よく聴いていました。
涙が止まりません。
今、亡くなった 親父の枕元で聴いています。
他界した父がCDで聞いていました。父は満鉄職員でした終戦時は現在の韓国でしたまた米軍管轄区域だっので何も不自由はなかったと言っていました、釜山から博多港に着いたそうです戦争さえなかったら満鉄職員で要られたのに子として思うていました葬儀の時この曲 で見送りました
田端義夫さん…とても残念です。
とても良くして頂いていました。
お家にも遊びに行ったり、東京のアトリエにも来てくれたり…。
とても紳士で本当に優しい方でした。
娘さんの絵を持ってきて観て下さいと照れていたり、
自分が気に入っている本(臨終図鑑上下)や
コンサートのチケットをわざわざ自分で届けにきて下さったり…。
私の雑な忙しさにかまけてここ何年も会いに行く事をしていませんでした。
そういった方が何人かいて…
これからはもっと近況報告などしながらご挨拶に行く事にします。
田端さん…ずっと現役でそれもデビュー当時と同じキーで歌っていました。
心からご冥福をお祈りする次第です。
萬謝、敬愛を込めて…合掌九拝
福の神
終戦記念日が近づくと聞きたくなります。
田畑さん涙を ありがとう😉👍🎶 ご苦労様でした。🙏💐
生きていたらうちの親父と同じくらいでした、長生きしましたね、ご苦労様でした。
還暦を過ぎたので先人の大変なご苦労を実感します。
小学生の頃シベリアから未帰還のお身内のため
お茶断ちをしていた先生がいらっしゃいました。
親類にもシベリアから帰国した人がいました。
たくさんの方が寒さで亡くなったそうです。
帰れただけで幸せと言われました。
ご苦労なさった皆様に深く感謝いたします。
敵兵をお互いに殺し合う戦時下でも、敵国民の命を等価として慈しみの心を持ち続けていたからです。田端義夫の精神はこれからも受け継がれなければならない。
親父の十八番でした 彼岸に行って十七年です
やっと前説の無いバタヤンの帰り船に出会えたことを嬉しく思います。どうも有り難うございます。
親父の好きな歌、葬儀で流し続けました。涙涙です。
私の父は大正14年12月生まれで、満60歳で亡くなりました。この曲が好きでした。ギリギリで出征しなくて済んだそうです(その兄、つまり私の伯父は中国へ出征)。
なんしかしみじみエエ歌ですわ☺️
かえり船で帰国した兵隊さんが言ったいたのを思い出す。現地にいた兵隊さんは、アメリカ軍によって補給船が殆ど撃沈され、食料がなく蛇やカエル、トカゲなど何でも食べたそうだ。帰れなかった兵隊さん、自分は言葉に言い表せない…。
私も田畑義夫さんのファンでしたよくぎたあひくまねをしてうたいました、
いいね田端義雄の名曲…イイネ押しました! 私のかえり船・かよい船も是非お聞きください。
The band and recording is marvellous!
バタやん オース 彼岸から日本を見守ってくれ。
また戦後が消えた、淋しいぜー。
シベリア抑留から帰ってきた親父は異国の丘と帰り船を聴いたんだろうな~
激動の時代を生き抜き耐えて帰還し3兄弟を育ててくれた。
屁みたいなわいの人生 恥ずかしいわ~@@
ばたやん。あなたは日本人の宝物です。
私の亡くなった父がよく聞いてました。亡くなったとはとても残念です。ご冥福お祈りいたします。
「かえり船」が復員船のことだったとは。「皆様、永いあいだご苦労様でした。これは日本の船です。」というアナウンスのこともこのコメントで知りました。忘れてはいけないことです。